T-3a 国東半島峯道ロングトレイル T-3 を歩く 2015/1/11


2015年1月11日(日)
いつもの仲間で国東半島峯道ロングトレイルの「T-3:並石ダムからスパランド真玉」を歩く。
午前8時半スパランド真玉の駐車場に集合し、1台に乗り合わせて出発地点の並石ダムへ移動。 並石ダムを出発した。 お天気は快晴。おおよそ14kmを歩く。                  AM8:57

先ずは、並石ダム-鬼城弘法大師堂-鬼城耶馬-三嶋神社-田原地峠-長安寺までの約 3.5km。

満満と水を湛えた並石(なめし)ダム。

鬼城弘法大師堂
並石ダム突堤の「コットン村」前をスタートし、突堤上を歩いてダム湖の向こう岸あたりまで歩く。 以前のコースは、突堤の中央あたりから下ったが、三嶋神社経由の新ルートを国東半島峯道トレイルクラブの河野英男さんが開拓してくれた。 今日は、そのコースを歩く。 突堤をほぼ渡り終えたあたりの左手に大師堂がある。大師堂の軒下に「鬼城弘法大師堂」と書かれている。 扉を開けてみると十二体の弘法大師像と、一体の観音像が並んでいた。 並んだ弘法大師と観音様に行程の無事を祈る。



ここを少し過ぎると「鬼城耶馬」の標柱があり、さらにその先の左手に「三島神社方面」の標柱がある、この標柱から山の中へ踏み入れて進む。

立ち木にテープが巻かれているのがコースの印。 コースをふさいでいる倒木倒竹を片づけながらのぼって行く。

ほどなく、右手に石垣が見え、その石垣の上が三島神社。

三島神社
(平成18年度 わくわく体験 東都甲歩こう会 史跡文化探訪教室テキスト転記)
空蔵岩屋とも呼ばれていた。 戦国末~江戸初期に造営されたと考えられている。地域では、古くから、「虚空蔵さん」と呼ばれている。

本殿背後の岩屋内の小宇に木造の虚空蔵菩薩坐像(榧材一木、像高90.5㎝)が安置されている。
虫喰い等による朽損著しいが、大ぶりで肉厚の面相や形式的な衣文の処理など室町前期頃の特徴を示している。
「道脇寺文書」の「屋山寺院主僧応仁置文書」(年月日未詳)に、「天台無動寺別院六郷山屋山寺院主應仁敬白、奉寄當山講堂、権現、持佛堂、太郎天童、虚空蔵石屋佛具荘厳幷年中毎節佛具神事勤行供料免田畠等打札㕝」とあるものに該当するとみられ、少なくとも建久4年(1193年)屋山寺(長安寺)を再興した応仁の時代には、既に同寺に付属した施設として存在していたことがわかる。

【三島神社造営】
室町前半期(1300年代)・・応永1394年~1427年 ・・永享年間1429年~1441年

三島神社 (飯沼賢司氏 4.中世の加礼川地区の坊と水田 書籍名不明) ※史跡文化探訪教室テキスト表記
虚空蔵石屋の場所は、三島神社の境内地となり、本尊虚空蔵菩薩は、三島社の御神体と一緒に祀られている。 三島社は、新田の河野氏の氏神であると同時に村の鎮守である。 河野氏は近世の加礼川村の庄屋で、田染の大庄屋河野氏の一族といわれる。 田染の河野氏は「河野家年代記」によれば、慶長5年に大庄屋に任じられており、戦国末期~近世初頭の混乱期に田染盆地に進出したといわれる。 新田の河野氏もこれからまもない時期にこの地に侵入し、かつての六郷満山の岩屋虚空蔵石屋の場所に氏神を祀ったため、現在のような神社の中に仏像が安置されるようになったと考えられる。

虚空蔵菩薩像
戦国末~江戸初期
 戦国時代15世紀~16世紀
 江戸時代1603年(慶長)~1868年(慶応4年・明治元年)
  江戸初期1600年代 徳川家康・江戸幕府・長期安定政権時代(天下太平の時代)


河野了氏 加礼川流域の堂宇調査によれば

都甲氏のあとを受けた吉弘氏の荘内における支配権の確立期にあたり、長安寺を中心とした六郷山が再び整備されていく時期にあたる。本像もまた、そうした吉弘氏による長安寺復興の一環として新造されたものであろう。

虚空蔵岩屋(加礼川新田)
三島神社拝殿裏の岩屋の中の小宇に虚空蔵と三島社のご神体といわれる銅の御幣あり、小龕にあった弘法大師坐像(木造)は湿気が多いということで昭和59年、相蓮山観雲堂に移したという。
※三島神社は加礼川新田河野一族の氏神。虚空蔵は榧一木造、像高90.5cm。現在は県立宇佐風土記の丘に保存中。参道脇に五輪数基。・・・とあるが、堂の中の仏は、レプリカか?
下の写真の左に社の神とされる銅の御幣がみえる。

一般的な三島神社解説
三島神社(みしまじんじゃ)・三島社(みしましゃ)は、「三島」を社名とする神社。 神社系列は「三島・山祇信仰」に属し、大半は伊予の大山祇神社(大三島神社)か伊豆の三嶋大社と関係のある神社とされる。

祭神
祭神は大山祇神社系のものでは大山祇神である。三嶋大社系のものは大山祇神または事代主神のどちらか、あるいは両神を祀ることが多い。
以前は三嶋大社も大山祇神を主祭神としていたが、平田篤胤の説に従って明治時代に大山祇神から事代主神に変更し、昭和時代に大山祇神・事代主神二神同座に改めるという変遷をたどっており、祭神に混乱が生じている。

この二社は、三嶋大社が大山祇神社の分社ともされるように同一視することもあれば、三嶋大社の祭神が事代主神に変更されたように無関係とすることもある。

これ以外の神としては、大山祇神の妃神である伊古奈比咩神や御子神の木花開耶姫神・岩長姫神を配祀していることもあるほか、大山咋神や宗像三女神を主祭神とする三島神社もある。
※三島とも三嶋とも表記される。


参道脇の墓地
五輪塔や古い墓石がある。形的に隠れキリシタンのにおいが・・・

石段を下って鳥居をくぐると、集落から長安寺へ上る道へ出る。右折し、坂道をのぼっていく。

長安寺方面の標柱